6月 8日(火)

 沖縄戦の跡をおって、まず旧海軍司令部壕へ行きました。長い壕の一部が当時のまま公開されており、手榴弾の弾痕跡など生々しく残っていました。ここから徐々に米軍に占領されて、沖縄県民は南部へ逃れていくのです。そのとおりに私たちも南部へ向かいました。
 果てしなく広がるサトウキビ畑の細い道をバスにゆられひめゆりの塔へ。ここで多くの悲劇は生まれたのです。すっかり観光されてしまっているけれど、その本質を忘れないようにしたいと思います。
 昼食に沖縄そばを食べ、1㎞先の魂魄の塔(こんぱくのとう)まで歩きました。ここには南部一帯にあった遺骨を収集して祀ったところです。今ではザワザワと気持ちよくそよぐサトウキビ畑の下に、当時多くの遺骨が眠っていたと思うと鳥肌が立つほどの悲しみがわいてきます。
 次の目的である平和祈念公園へ行くためにバス停へ向かって歩いていると、小さな車が止まり「同じ方へ行くなら乗っていきませんか」と声をかけてくれました。午後1時の炎天下で疲れていたから助かりました。実は、今朝も安くタクシーに乗せてもらっていたのです。
 沖縄戦終焉の地であり、今は多くの慰霊塔が建っている平和祈念公園は小高い丘でした。摩文仁の丘(まぶにのおか)といわれるここは海に向かって切り立った断崖絶壁で、その下に健児の塔がありました。丘の上には司令官だった牛島満と軍参謀長だった長勇が自決するまでこもった洞穴と碑がありますが、真の姿は崖の下にあるのです。この場所を教えてくれたおばあさんから買ったお花とお線香を添えました。
 資料館と平和の礎(へいわのいしじ)を見学。波のように並ぶ礎は、実際に鉄血勤皇隊として戦い生き残った大田・元沖縄知事時代に作られた祈念碑群です。慰霊の日である6月23日の子午線をなぞって放射状に作られています。その数が沖縄戦戦没者の多さを物語っていました。
 夕方は玉泉洞王国村を観光しました。鍾乳洞は期待以上におもしろかったです。王国村も琉球時代からの伝統工芸がよくわかりました。閉園ギリギリまで見物し、バスで喜屋武岬を経由しながらホテルへ帰りました。多くの住人が身を投げた喜屋武岬や、集団自決があった米須地区を夕暮れに回ると、草むらから魂が呼びかけるようで恐いくらいでした。

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